佐藤亜紀「ミノタウロス」

遅ればせながら佐藤亜紀「ミノタウロス」を読んだ。

ロシア革命前夜(1900年~1910年代前半)のウクライナという辺境中の辺境(日本人から見て)を舞台にした少年ゲリラたちの物語だ。

画像


すでにいろいろな人が絶賛しているけれど、1ページ目から最後のページまで、舐めるように一気に読ませられてしまった。福井晴敏が「圧倒的筆力などというありきたりな賛辞はあたらない。これを現代の日本人が著したという事実が、すでに事件だ」と帯で紹介しているのもうなづける(そしてブログを2ヶ月ぶりに更新させるのに十分な)凄さだった。

後半部分の面白さはすでに多くの人が絶賛しているものの、主人公のヴァシリがゲリラになるまでが語られる前半部分についてはそんなに触れられていないみたいなので、その点について(僭越ながら)レビューしてみたい。

とくに自分が舌を撒いたのは、前半部分の語り。

主人公のヴァシリは、ニヒルでシニカルな人物として規定されている。
冒頭からして、

独学で身に付けた簿記と、腰の低さと、お愛想笑いが生活の手段だった。(5P)

と父親を小馬鹿にしているのだ。これだけで、ヴァシリの性格がとてもほめられたものではないと想像がつくだろう。

物語は、その後も社会や周囲の人間を軽蔑しきったヴァシリの視点からシニカルに語られて行く。そして、ホモセクシャルの友人を蹴り倒して半殺しにしたり、家の家政婦を手込めにしたりといったエピソードが彼の「向こう見ずさ」を規定していく。そして、一人称の語りは「自分=ヴァシリ」の行動を最初はごく自然に(ただし前半中頃からはかなり強引に)正当化しようとする。

だがしかし、

だけれども、

その一方で、作者は主人公のナイーブさを一人称の語りのなかにそっと忍びこませるのだ。たとえば、72~73Pの恋人テチヤーナに対する描写。

だからテチヤーナは、十八で、はちきれんばかりに健康で、(中略)信じられないくらい無邪気だった。抱きしめると一抱えもあって、裏返すと広い背中が馬の毛並みのように輝いて、肌は柔らかいというより針で突いたらはじけそうで、こんがり焦げた焼き菓子のような匂いがした。(72~73P)

ここなんていわゆる19世紀ヨーロッパの大衆小説の典型的な修辞で、恥ずかしくなるような紋切り型の連続だ。特に、「こんがり焦げた焼き菓子のような匂い」がだめ押しである(もちろん主人公ヴァシリにとってここは恋人を讃える詩的なアリア)。かつて福田和也・松原隆一郎との共著『皆殺しブックレビュー』で、作者がデビッド・ロッジの評論を紹介していたが、「そら笑え」と言わんばかりの底意地の悪さはまさにロッジ的だ。しかも、それを自分の小説内の一人称語りの主人公相手にやってのけているのが恐ろしい。

ある女性評論家が、この主人公と作者は似ていると言っていたが、それは絶対に間違っている。この小説に限って言えば、作者のほうが主人公より二枚も三枚も上手だ(というより、物語と登場人物の操り具合がすさまじい。まだ『戦争の法』の主人公の方が、作者との距離感は近い)。

その後も、怪我を負っている親友を見殺しにするなど、ヴァシリのヘタレっぷりは、どんどん顕在化してくるのだが、なんといっても圧巻は、前半部分の最後、主人公が信頼していたはずのシチェルパートフという資本家に7ページに渡って罵倒されまくるシーンだ。

お前みたいなろくでなしに連れだされるのはまっぴらだ。(128P)

言ってみろ、ヴァーシャ、父なし子、お前は一体誰の子だ。(129P)

そう言われて、ヴァシリは自分が敵から守ろうとしていたはずのシチェルパートフを撃ち殺して、ひとりで逃げ出してしまう。

と、このように、シニカルでニヒリストであるはずのヴァシリのヘタレさが徐々に明らかになっていく(ただし、無鉄砲でかつ異様に執念深いまま)というかなり難易度の高いベクトルが、前半部分の修辞と行間には巧妙に織り込まれているのだ。しかも一人称の語りであるにもかかわらず…。これだけとってみても「ミノタウロス」は大傑作だと思う。

そして物語の最後の最後、自分が死ぬ直前にもヴァシリはヘタレてしまうのだが、それがまたイヤミじゃなくサラっと書かれていていい。やはり作者がよく言う「サービス精神」の神は細部に宿るのかしらん…。



ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

yoko
2008年02月16日 08:16
こういうタイプの押しが強い
癖があるのに最後までぐわーっと読ませる本に出会うと
読後興奮するよね。
わーい、読んでみます。面白そう。
2008年02月18日 08:45
文春文庫から出ている「天使」「雲雀」も登場人物のキャラが立ってて面白いよ。こちらは第一次世界大戦前のウィーンを舞台にしたサイキック間諜ものです。

この記事へのトラックバック